「夜読む日記」
「恥ずかしながら友達と喧嘩しました」
恥ずかしながらこの年になっても友達と喧嘩したりする。
いや、喧嘩というと大げさかも…実際はなんとなくこじれてなんとなく疎遠になることがある。
頻度は学生時代とかとは比べ物にならないぐらい低い。一番最新のこじれは数年前とかなんだけど、大人の数年前って半年前ぐらいの感覚じゃないですか?
あと大人同士で友達をしてくれる人なんて本当に貴重な訳なので、頻度が激低(げきひく)であっても一発一発の衝撃が本当に大きいのであります。
そしてその衝撃のでかさゆえに何年にもわたって毎日思い返してはウジウジウジウジとしておりました。あ~、ずっと友達でいたかった。私の愚か者。
●なぜこじれるのか
思えば私は30代になるまで自他境界がかなり曖昧だったように思う。
以前にも書いたが、例えば友達の秘密はできれば知りたかったし、逆に自分の秘密なんてないも同然だったので何でもかんでも全部あけすけに話していた。
そういうのが、なんというか、ピュアで真摯な友情、または人間関係に必要な要素だと思っていたのだ。
しかし現実はそうではないのだ。
私の引いている線と、私以外の人が引いている線はかなり違う場所に存在していたのである。
私の引いている妙な線のせいで、私は人の踏み込んでほしくない部分まで踏み込み
逆に私も踏み込んでほしくない部分に到達されてしまったり、あるいは変すぎる線引きに警戒されて全然寄ってきてくれなかったり。
とにかくそれを自覚した時、言いようのない恥ずかしさにウワ~っと叫び出したくなった。
家族や友人に対して、心や生活の全てを明かす必要など全くなかったのだ。
人間誰しもに踏み入れてほしくない領域があり、踏み入れていい領域であっても自分で範囲を調節して差し出したい分だけを差し出せばよいのである。どんなに毎日一緒にいても、どんなに仲がよくてもだ。
そして差し出されたときには程よく同じぐらいの気持ちを返す。それだけでよかったのではなかろうか。
多くても少なくても失礼だったり負担だったりするのかも。プレゼントのようなもので。
どんなに大切な存在でも見せたくない部分は見せなくてもいい。付き合いたくない時は付き合わなくてもいい。
もしや…そういうのが心地よい距離感を作る方法なのではないだろうか…
●自分の欠点は自覚しつづけるしかない
これまで失敗の多い人生を送ってきたが、私は自分の欠点を認めることにずいぶん時間をかけてしまったように思う。
まだまだ私の中におかしな部分はあるとは思うが、少しずつ認めていかねばならない。苦しいが直視するのだ。欠点を知ることは他人にも自分にも傷をつけない、つまり生きやすくなるための方法を知ることだと思う。
●人と人は公転している
話がとっ散らかってしまったが、私は人と人とのかかわりって惑星の公転と似ているなと思っている。
全く知らない人間同士がある時期重なりあい、並走し、そして少しづつずれていく。
人生の進み方は人間の数だけあって、それを消費するスピードもまたそれぞれなのだ。
私はいままで自分のそばから離れていく人たちの事をどうにか繋ぎ止めたかったし、離れていくたびにかなり深く絶望していた。でも合う合わないは絶対にあって、どんなに仲よく並走していても、何かのはずみで衝突して遠くに弾き飛ばされることがある。私は私の進む方向にしか進めないし回れない。同じスピードの人は一人だっていない。流れに身を任せて自分も自分の軌道の中で回転していくしかないのである。
●まわり続ければ重なり合う
さて、なぜ今回こんな話を書いたかと言うと、実は最近、疎遠になった友達と偶然次々連絡を取るようになったのである。
もちろん過去の事をきっちり話して謝ったり、また逆に謝ってもらったりなどした。ありがたいなと思ったし、奇跡みたいだなとも思った。
お互いの近況報告をした後は昔のように他愛のない話をメッセージアプリで送り合ったりしている。
無理のない範囲で、無理のないペースで。
流れに身を任せるというのはつまり、自分の人生に集中するということなのではないだろうか。思うに私はこれまでだれかの軸にばかり興味を持って、注目していたように思う。
自分の中にあるものをじっくり見定めて自分の軌道をブレずに回れば、運が良ければこうしてまた大好きだった人たちと再会することだってできるのだな。
なんて嬉しくて素敵なことなのだろう。
再び重なりあえた回転ができるだけ長く続くように願いながら今日も私はフワフワと身を任せるのだ。自分だけの回転に。



