樹の恵本舗 株式会社 中村 樹の恵本舗 株式会社 中村
ONLINE SHOP
MENU CLOSE
tommorow1028

燃え殻「明日をここで待っている」

一日の終わりや、疲れ切った今日を脱ぎ捨てた部屋でぽつりと明日を想うような言葉群

明日をここで待っている 第5回

 

「温泉に行きたい」
100円均一で売っていた入浴剤をポトンと湯船に落とし、しゅわしゅわと泡が立ち上がってくるのを見ながら、思わず口から本音が漏れてしまった。
最近、入浴剤に凝っている。自然界にないエメラルドグリーンに湯船が変色していく。テレワークもズーム会議も、僕の日常にしっかり根付いている。世の中はフリーズしたように、その場足踏みを繰り返し、上がったり下がったりを繰り返している。とりあえず温泉に行けるような社会状況じゃないことは僕にでもすぐにわかる。左腕に打った一度目のワクチンの跡がジンジンと痛む。遠出は自粛してください、と偉い人に言われるまでもなく、もう一年ほど自粛に次ぐ自粛を繰り返している。しかし収束はまだ見えないままだ。僕の仕事は幸い、人に会わずに成立する。雑務や納期、なんだかんだで自宅か仕事場にしか行かずに、一日の大半が終わっていく。ほとんど家の中にいるのだから、家の中を充実していかないと、仕事をしているいわれがないことに最近気づいた。入浴剤に凝りはじめたのはそのこともあってだ。湯船に浸かり、しゅわしゅわと泡が出るのをただぼんやりと眺めていると、やけに気持ちが落ち着いていくのがわかる。ケミカルな色も不自然な清々しい匂いも、人工的で安心する。
早めに原稿を終わらせ、風呂にすることが最近の生きがいになった。基本的に、風呂の湯の温度はヌルめに設定する。湯船に浸かりながら、鼻から大きく息を吸い込む。ケミカルな大自然の香りが鼻腔を抜けて、なんだか気分が良い。全身の筋肉が弛緩していくようだ。
コロナ禍になる前は、最低でも午前2時くらいまでは飲み、デロデロに酔っ払って帰宅し、倒れこむようにシャワーを浴び、全裸でベッドに沈むこともざらだった。その生活がコロナで一変することになる。もう半年以上、アルコールをまともに飲んでいない。
この生活になって気づいたことは、自分はそれほど夜の街を愛していなかった、ということだ。アルコールもそれほど必要としていなかった。夜な夜なアルコールを飲んで、憂さ晴らしでもしていないとやっていられない、という呪文をかけられていたのかもしれない。アルコールを入浴剤に変えてみると、悪いことがひとつもなかった。まず入浴剤は二日酔いがない(当たり前だ)。頭痛や吐き気も伴わない(知ってる)。緊張した神経が緩和する(これはイーブン)。にしても入浴剤のほうが、どう考えてもベターな選択だ。さらにもうすぐ48歳になってしまう。朝起きて、正体不明の筋肉痛や倦怠感、めまいに痺れと、メルカリに出品しても誰も落札してくれそうにない、使用済み汚れ目立ちます案件になってしまった。二十代、三十代のように、朝方まで飲んでそのまま仕事に行くような苦行を繰り返すことはコロナ禍に関係なく、自分にはもう無理がある。残りの人生は、部屋の中で癒されるもので充実していきたい。しかしそこは資本主義、注意も必要だ。今日、「最強の入浴剤」と銘打って売っていたものを見つけてしまった。入浴剤にもピンからキリまであるらしい。同じく最近、入浴剤に凝っているディレクターに聞くと「あれは入浴剤界のドンペリだね」と嬉しそうに言った。謎の目標ができて顔がほころぶ僕がいた。コロナ禍、僕は新しい沼を見つけただけなのかもしれない。

Product

ライター紹介

燃え殻
テレビ美術制作会社企画、小説家、エッセイスト
1973年神奈川県横浜市生まれ。都内のテレビ美術制作会社で企画デザインを担当。2017年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説デビュー。
2021年3月、書籍『夢に迷って、タクシーを呼んだ』刊行。

【Twitter】 : @Pirate_Radio_
【Instagram】 : @_pirate_radio_
平井豊果
イラスト
神奈川県鎌倉市生まれ
2007年迄グラフィックや映像の仕事をしてきてが、ハイリー・センシティブ・パーソンの為、社会に適応出来ず一般企業に勤める事を諦める。
好奇心が強く自由奔放に生きたい自分と、それらを許さない糞真面目なもう一人の自分が常に対立し如何にして生きるかを考えながら制作しています。
2013年暮れから現在まで毎日何か一つ制作する事を続けています。

【Twitter】:@aoironica2
【instagram】@aoironica


熊谷菜生
タイトルデザイン
岩手県出身。グラフィックデザイナー。主に広告や書籍のAD、デザインなど。
『相談の森』『すべて忘れてしまうから』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』(著者:燃え殻)の装丁を担当しています。

【Twitter】:@nao_qm
Back