
「夜読む日記」
子育てとは「自分が子供に育ててもらうということ」なのではないかと思う。
このコラムを書いている現在、私の息子は2歳4か月である。
息子はおしゃべりなタイプで、簡単な会話ならラリーができるようになってきた。
イヤイヤ期のピークは過ぎ、まだたまにキーキーしてしまう時もあるが、赤ちゃんから幼児へと勝手にムクムクと育ってくれている。
●こちらこそありがとう
先日、息子が私の口におやつを入れてくれたので「ありがとう」と返したところ、息子が「こちらこそありがとう」と言って頭をぺこりと下げて驚いた。
これは息子がありがとうと言ってくれた際、いつも私が言っていた言葉だからだ。
まだ自分の世界がとても小さい息子は確実に私の言葉や行動を吸収し、そして自分でかみ砕いて飲み込み放っている。
私と息子は全く違う人間ではあるが、その瞬間はなんだか自分を映す鏡をみているような気分になって「息子が私の真似をして恥ずかしい思いをしないように真面目に生きねば」と背筋がピンと伸びた。
この「真面目に」とは堅苦しいものではなくて、例えばポイ捨てはしないとか、人に意地悪をしないとか、ご飯を食べ終わったら「ご馳走様、おいしかったよ。」と言葉で伝えるとか、何かやらかしたら素直に「ごめんね」って言うとか。
当たり前だけど当たり前にしてはいけない事をきちんと伝えたいな。
それって自分を守ってくれる盾みたいなものだから、息子にもその盾を持っていてもらいたいなーなんて思ったりした。
そのためにはまず私が意識して「真面目」にやっていかねば…なのである。
●「お父さんお母さんはなんであの時ああしてくれなかったの」
現在、わが家は息子を自宅保育しており、夫は家にいる時間が少ない。必然的に私がワンオペで息子を見る日が多い。
今まではイヤイヤ期が激しかったため、一人で息子を連れ出せる場所と言えば神社だったり公園だったり、近所の商店街だったりが多かったのだが、ふと「少し離れたホームセンターに行ってみよう」と思いついた。
息子は嫌がらずに自転車に乗ってくれて、ぐずることもなくホームセンターに到着した。
足りない洗剤なんかを買って、飼っている犬猫のものを見にペットコーナーへ入った時、息子が金魚を見て「きれいねえ」と言った。
あまりにも黙って真剣に金魚を見るもので、私も何も言わずに息子の隣に立って金魚を見た。
幸い平日で、ペットコーナーには誰もおらず、近くにいた店員さんも「ゆっくり見ていってください」と声をかけてくれたのでお言葉に甘えて息子が動き出すまで黙って見守ることにした。
金魚を見ながら幼かった時のことを思い出す。
私が小さかった頃は外で何かに夢中になった時に必ず親に止められていたなあ。
つまらなさそうだったり、「早くしなさい」って急かされたり「やめなさい」って言われたり。
勿論それが正しい対応だっていう瞬間もあるけど、たぶんあの頃の私はお父さんやお母さんと同じものを見て、同じ音を聞いて「楽しいね」って言いあいたかったんだよなあ。
子育てしているとそういう過去の「お父さんお母さんはなんであの時ああしてくれなかったの」っていう、心の中にいる小さな頃の私がふと顔をのぞかせることがある。
30を超えて何言ってるんだよって思われるかもしれないが、でも、本当に頻繁に過去の自分と対峙するのだ。
息子が金魚を見終えた後に私の顔を見て「ママ、たのしかったね」と言ってくれた時、なんだか小さな頃の私の隣に息子が立って語りかけてくれているような気がした。
子育ては今まで無視してきた小さなころの自分と向き合う時間でもあるのだなと思う。
ああ、子供とはなんて尊くてありがたい存在なんだろう。
私はこの子が生まれたときから与えてもらってばかりなのではないだろうか。
●寿司屋へ
その日はワンオペということもあり、前日から作り置きをつくって冷蔵庫に入れていたのだが、なんだか自分の作ったものを食べるのが嫌になってしまって息子に「外食しちゃおっか」と言ってみた。
外食がという言葉が何を指すのかをあまり理解していない息子だが、悪そうな顔をしながら「ガイショク、いいね。しちゃおっか。」と言ってくれた。
たぶん私も悪そうな顔をしていたのだろう。子供って本当に鏡みたいだ。面白いなあ。
少し自転車をこいだところに回転寿司屋さんを見つけて入ってみる事にした。
これまでワンオペの日って何かを買って帰って食べるとか、私が何かを作って家で食べるばかりだったんだけど、今日はなんだかいけそうな気がする。
テーブル席に座って、お茶を入れて二人で飲む。
注文パネルで息子に自分で食べたいものを選んでもらう。フライドポテトとラーメンと、あとはハンバーグの握り。
私も適当にちょいちょいっと注文して、お寿司がレールから流れてくる。
「すごいね」と言い合ってゆっくりゆっくり二人でお寿司を食べた。
「慌てなくていいからね」「服も手も汚れちゃってもいいからね、洗えるからね」と息子に言う。
息子はゆっくりゆっくりいろんなものを味見していた。お腹がいっぱいになった後も、私がお寿司を口に入れるのを「たのしいね」とニコニコしながら見守ってくれていた。
心に住んでいる小さな私が「「ゆっくり食べていいよ」も「汚れてもいいよ」も私が言ってほしかった言葉だね」と言う。
そうだね。そうだったよね。
私に対してそう言ってくれる人がいるってなんて幸せな事なんだろうね。
●自分がしてほしかった事、してほしくなかった事
息子と私は別々の人間だ。
子育てってたぶんきっとどこまで行っても親の自己満足だと思うし、ありがた迷惑なことも頓珍漢なことをすることもこれからたくさん出てくるだろう。
親が子供に対してしてあげられることなんて、本当にちっぽけなことだと思う。
私は子供を育てていく上で「たくさんのものを与えてあげる」事より「過去にされて嫌だったことを忘れずに接する」事を心がけている。
これだって自己満足ではあるが、それでも一人の年上の人間として年下の息子をリスペクトして、同じ人間同士として生きていきたいのだ。
一人のただの人間として、一人のただの人間と生活していく。
その過程で心の中にいる幼い自分を喜ばせられたり、はたまた真面目にやっていこうと目標を掲げるなんて思ってもみなかった。
子供はこれからも無意識に、私が子供にが与えるものよりももっと深く、大きなものを私に与え続けてくれるのだろう。
私は子供を育てながら、無意識に自分の事も育てているのだなあ。と思う。
子供を育てるように自分に接する。
自分の事だからって面倒で適当にしていた生活の一部分もできるだけ丁寧に。自分のしてほしかったことに目を向けて、これからの人生をできるだけハッピーに彩ってやるのだ。
大人にはそれを実現できる力がある。
さあ、明日はどんなことを自分と息子にしてあげようか。
