ちょっと気楽になった夜
お悩み相談の痛快なアドバイスが人気。
人生の格言で多くの人の心を動かすDJあおいが
あなたの夜をちょっと気楽にします。
運は育てられる
私は『占い』というものを一切信じていません
というよりも、『信じる/信じない』という天秤にも乗せません
ただのお伽話のようなものだと思っています
でも、彼らがよく使う言葉、『運』というものは信じています
なぜなら、私は『運』というものは、神や仏ではなく、人が運んできてくれるものだと思っているからです
そう、私は人を信じているのです
では、『運がいい人』とは何者なのでしょうか
幸運が天から降ってくるのをじっと待っている人のことではない、と私は思っています
運がいいとされる人をよく観察すると、ある共通した習慣が見えてきます
新しい情報を積極的に取り入れ、自分とは異なる価値観に触れることを恐れない
日々の小さな選択の積み重ねによって、偶然のチャンスと出会う確率
いわば『接触面積』を、自らの意志で広げ続けている人です
接触面積、という言葉を私はとても気に入っています
運を『面積』と捉えると、それはもはや才能でも天運でもない
読書をすること、普段会わない人と話すこと、専門外の勉強会に顔を出すこと、いつもと違う道を選ぶこと
そのひとつひとつは取るに足らない行動に見えても、積み重なることで『偶然が訪れる場所』は確実に広がっていきます
重要なのは、接触面積を広げている人は、何が来るかをあらかじめ知らない、ということです
どんなチャンスが訪れるかわからないまま、ただ間口を開き続けている
だからこそ、思いもよらない出会いや機会を、驚きとともに受け取ることができる
逆に間口が狭ければ、同じ出来事が目の前を通り過ぎても、それがチャンスであると気づかないまま終わってしまう
『運がいい人』と『運が悪い人』の差は、もしかしたら感度の差なのかもしれません
そして、ここに『人』が絡んできます
接触面積を広げる手段の中で、もっとも豊かで、もっとも予測不能なのが、人との出会いです
本は読んだことのある著者にしか出会えないけれど、人は、思わぬ方向から思わぬものを運んできます
情報だったり、縁だったり、視点だったり、あるいはただの言葉のひとつだったり
『運を運んでくるのは人だ』と私が思うのは、そういう意味においてです
誰かと話した翌日に、ふと道が開けることがある
誰かに紹介してもらった本が、人生の転換点になることがある
たまたま隣に座った人が、十年来の問いへの答えを持っていることがある
それは神の采配ではなく、人と人の間に流れる、目に見えない水脈のようなものです
だから私は、人を信じることと、運を信じることを、別々に考えたことがありません
人を信じることが、そのまま運を信じることになっています
では、『運』とは結局何なのか
ここまで考えてきて、私はひとつの定義に辿り着きました
運とは、天から与えられるものではなく、『不確実な世界をどう泳ぎ、どう解釈するかという技術や姿勢そのもの』ではないか、と
『技術』という言葉を使ったのには理由があります
技術は、磨けば上達する
才能や星回りとは違い、自分の意志と努力によって変えられるものです
接触面積を広げることも、人との縁を大切にすることも、偶然の出来事をチャンスとして読み解くことも、すべて技術として捉えることができます
そして『姿勢』という言葉も外せません
同じ出来事に遭遇したとき、それを損失と見るか、学びと見るか、あるいは伏線と見るか
その解釈の仕方が、その後の行動を決め、次の偶然と出会う確率を変えていく
運がいい人は、運がいいから前向きなのではなく、前向きに解釈するから運が続くのだと、私は思っています
つまり『運』は、結果ではなくプロセスの質なんです
占いが『答えを外に求めるもの』だとすれば、私の言う『運』は『問いを自分に向けるもの』です
だから最初から、私にとって占いと運は、土俵が違いました
占いを信じる、信じないという話をしている人たちの横で、私はずっと別のことを考えていたのかもしれません
運は授かるものではなく、育てるもの
神に祈るのではなく、人を大切にすること
星を読むのではなく、自分の接触面積を広げていくこと
それが、私なりの『運』の定義です
そして今日も、これからも、誰かが何かを運んできてくれると、私は信じています



