「夜読む日記」
理解できないものへの向き合い方
ここ最近のインターネットはなんだか息苦しい。
スマホやパソコンのお画面を見ていると気分が落ち込むことが多くなってしまい、気づけば小学生時代にパソコンを買い与えてもらってから20ウン年、あんなに熱中していたネットの世界から少し離れて生活するようになってしまった。
でも、一体何がこんなに息苦しいんだろう。
思うに他人の生活や趣味を勝手に評価して勝手に点数をつける流れができてしまっているのではなだろうか。
これは自分にも当てはまる事なので、忘れないように、自戒の為に書きたいと思ったコラムだ。
スマートフォンが登場して普及してから、インターネットの世界はガラリと変わったように感じる。
誰もが自分の生活を写真や文章に残してインターネットに放流できるようになって、そのメッセージに対して赤の他人が簡単に感想を言えるようになった。
素敵なことだと思う。だがあまりにも簡単にできすぎることが問題でもあると感じる。
誰かが写真や思ったことを発信する。
リアルな世界だったら「へーそうなんだ」で受け流すようなことであっても、インターネットというツールは、その写真や発言を通して他人の行動を評価してしまう、評価していい立場になったと思い込んでしまう、そういう不思議な作用があると思う。
画面を通した他人の意見というのは、どこか人間ではないもののように感じる。
そしてなぜかそういう情報が、自分の考えと食い違っていたときストレスを感じてしまうし、果てはその意見を正したくて仕方なくなってしまう。
たとえばこれがテレビ相手だったら、一方的な発信を受け取るだけだ。相手は目の前にいないし、また相手に直接意見を言うことも出来ない。
だから「これって変じゃん」と思っても大体は隣にいる人とか、独り言に出しておしまいにしてしまうのではなかろうか。
しかしSNSは一方通行ではない。自分の発する一つの文章がものすごく複雑にいろんな方向へ飛んでいく。
決して消えることのない文字という形で、相手へ意見を投げることができてしまう。
しかも茶の間での独り言のような感覚で。
あなたの歌は下手ですよ、あなたの服装は変ですよ、あなたの描くイラストはデッサンが狂っていますよ、あなたの作ったご飯は栄養が足りていませんよ。
良かれと思って、自分美学とずれている相手の行動を正そうとする。
それに従わなければ「なんで従わないんだ」とイライラする。
コイツは傷ついていないのか?反省しないのか?謝罪しないのか?頭が悪いんじゃないか?
そしてまた茶の間での独り言のような感覚で自分の意見を投げてしまう。
なんだかその連鎖が無限に続いてしまっているような気がしてならないのだ。
なぜだか我々はどうしても、心がないように見える他人に向かっておせっかいをしたくなってしまう。
しかしながら当たり前ではあるが画面の向こうの相手にも心はあって、生活があって、美学があって、好きなものがある。
インターネットでの一面だけをみて「こいつは悪いやつだ」とか、「こいつは間違っている」と思ってしまう前に、人間は多面体でできていることを忘れないような自分でいたいなと思うのだ。
誰だって考えなしで生きてなんていない。私が、あなたがそうであるように。
その人の選び取ったものは、その人が人生をかけて培ってきた経験の結果なのだということを忘れてはいけない。
現実でもインターネットでも、すれ違う誰もが「生きている人間であるということ」を想像しなくてはいけない。
相手の選び取ったものを否定するということは、相手の人生そのものを否定していることに等しい。
間違っているように見えても、不恰好に見えても、他人の導き出したものに茶々を入れていい人間なんて本当はいないのではないだろうか。
勿論迷惑をかけられたり、害がある場合、指摘も止むを得ないが、それ以外の他人の勝手は「ああそうなんですね」と受け流せる柔軟性を持つ必要があるように思える。
多様性が叫ばれている昨今ではあるが、本当の多様性というのは理解できないものを無理に理解ようとすることではなく、「あなたはそうなんですね」と互いが互いを受け流せるようになる事なのではないだろうか、と思うのだ。
インターネットでの書き込みは、自分のノートにする落書きではない。
ましてやテレビを見ている時の独り言でもない。
この小さな端末の中で、いろんな価値観を持った、いろんな国の人間の人生が交差している。
こんな偉そうに語っている私も、実際文字で見る人の情報というものに現実感を感じないことの方が多い。
たまに自分の意見と違う事が流れてくるとやっぱりムッとしてしまうし、逆に自分に対して嫌だなーと思うことを書き込まれていたりもする。
ただ、感情的に反論したりせずに一旦想像してみるのだ。
その意見を書き込むに至った相手の生活や、人生や、気持ちを。
そうするとなんとなく憎めなくなる。いきなりは無理だけど、時間をかければきっと「あなたはそうなんですね」と思える日がやってくる。
おしとやかに行こうじゃないか。
きっとトゲトゲした言葉を世界に向けて放つより、そんな自分の方が好きになれる気がするから。