「夜読む日記」
人の真似はたっぷりする。馴染んでいく。
私は京都芸術大学でイラストレーションの授業を持たせてもらっていて、その授業の中で「自分のこれからやっていきたいと思う表現に近いイラストを模写する」という回を必ず設けている。
私はこの授業の時、必ず説明することがあって
①オリジナリティのあるイラストを何もないところから急に思いつくということは不可能
②人のいいところを見て真似をしてみるところから始める
③いいものをたくさん見て、いいと思った表現をたくさんインプットする
④それが混ざり合って最終的に自分の個性になる
つまり、人のいいところをとにかくたくさん見てほしいと思っているのだ。そしてどんどん真似をしてもらいたい。
どんなに自分の中に才能が眠っていてもいきなりすごいイラストを描くなんて不可能だし、1枚描いたからって一気に画力が伸びるなんてあり得ない。
大切なのはいいものをよく見て、たくさん描いて、そのたびに反省点を見つけて次に進むことなのだ。と私は思っている。
さてここからが本題なのだが、私はイラスト以外でも人の「いいところ」を観察するようにしている。
そしてじゃんじゃん真似をする。
私は学生時代、あまり人付き合いというものをしてこなかった為、なんとなく人との価値観というか、人間社会での生活のコツみたいなものをわからないまますくすくと育ってきてしまった。
そのまま20代に突入し、社会に解き放たれたときに「あれ、私もしかしてなんかズレてる…?」と少しずつ気づき始めた。
きっかけはよく覚えている。
数少ない小学生の頃からの友達とご飯を食べに行った際、私は面白いと思って自虐のつもりで自分の事を「ババア」と呼んでヘラヘラしていた。
当時テレビやネットでその言葉が面白おかしく使われており、それを見た私の小さい小さい脳は、ババアという単語をスポンジのように吸い取り、そして「おもしろ」として口からアウトプットした。
だがあまりにもその遊びの場に似つかわしくない言葉だったのであろう。一人の友達が冷めた口調で「口が悪いね」と注意してくれたのだ。
この忠告がなければ自分のズレに気付くのにもっと時間がかかったと思う。
思わず顔がカーッと赤くなった。
やだ恥ずかしい。私はただみんなを笑わせたかっただけなのに!これって駄目な言葉だったんだ。と。
この時私は初めて「人を傷つける可能性のある言葉は使わない」事を覚えた。当時20代前半だっただろうか。今考えると遅すぎるのだが。
そこからは自分の価値観のずれを修正するために色んな人を観察するようになった。
とにかく自分にはない、他人のいいところをたくさん見つける。
例えばネガティブな言葉は無理矢理にでもポジティブな言葉に言い換えた方が気持ちよく会話できるな、とか
感謝の言葉は口に出さないと伝わらないんだ、とか
人のうわさ話はしない方が格好いいんだ、とか
人のものはとっちゃダメ、人に変化を強要しちゃダメ、人に期待を押し付けちゃダメとか…
当たり前のことかもしれないけど、それでも私には当たり前ではない事が沢山あった。
友達や関わった人、芸能人。
目に飛び込んできた「いいな」と思った仕草や行動はとにかく真似をして、しまくって、もちろん真似をする途中で失敗をしたりもしたけど、とにかく何度も何度も人と話すときに練習をした。
何度もやればやるだけその行動はどんどん自分に馴染んでくる。
それが何だか面白かったし、嬉しかった。
今私は33歳で、人と喧嘩をしたりうっかり誰かを傷つけてしまう回数はさすがにかなり減ったけど、今でもたまに「やっちゃたなあ」と思うことがある。
そうするたびに考えるのだ。次はどうすればいいか、どう行動すればいいのかを。
人生はRPGと同じだ。レベル1からいきなり100になることはできない。
でも、1つ1つ課題をクリアするごとに経験値がたまっていく。確実に。
失敗したってこれまでの経験は無かったことにはならない。
レベル1から2、2から3…
自分でもわからないぐらいの変化が、日々自分の中に蓄積していく。
それを死ぬまで続けていくのだ。きっと。
振り返ると、10年前の自分からずいぶんマシな人間になれたのではないかな、なんて思う。
完璧ではないけど「なんか大人だね」と言ってもらえるぐらいの人間にはなってきているんじゃないかしら。
イラストだって抜群に上手いわけではないけれど、10歳の時の自分が今の自分の絵を見たときに「上手だね」と言ってもらえる気がしている。それでいいのだ。と、思う。
たくさん失敗して、たくさん再挑戦していきたい。自分を好きになれるように。
なんでもできて完璧な神様みたいになれなくてもいい。
いろんな人のいい部分を真似して馴染ませて、少しずつなりたい形の自分になる事を目指していくのだ。
明日もなんとかやっていこう。