「夜読む日記」
親になるということについて考える
今年の3月末「なんだか体調が悪いな」と思って検査をしたところ、妊娠していることがわかった。
実は私は幼い頃から妊娠についてすごく興味を持っており、「もし機会があれば子供を産んで育ててみたいな」と思い続けていたがなかなか子宝に恵まれなかった。
興味は持っていたものの、職業柄猛烈に不摂生な生活を送っていた為、自分の健康面にはあまり自信がなく「このまま一生子供はできないかもなー、寂しいけどそれもそれで楽しいしアリかもなー。」と考えていたので、自宅のトイレで検査薬に尿をかけ即陽性反応が出た時、嬉しさよりも「まさかこの身体に子供が!?」という驚きの気持ちが勝っていた。
妊娠判明後すぐにつわりが始まり、頂いていたお仕事の流れを全てストップしたり緩やかにしたりと調整してもらった。
週に一度、京都の大学に漫画を教えに行く仕事だけは休まずに行くことができたが、それ以外はほぼ布団の上で目覚め、布団の上でご飯を食べて、布団の上で眠って過ごした。汚い話だがこの時はお風呂に入るのは2日に1回が精いっぱいだった。
つわりがこんなにしんどいものだとは思っていなかった。
このほぼ寝たきりの間に、私の腹で細胞分裂を繰り返しているであろう胎児に向かい「母親らしい気持ちになってみよう」と、いろいろ思考を巡らせたが、最終的にはいつも「信じられないほどめちゃくちゃ体調が悪い」という主観的な感想のみが頭を支配していた。
理屈はわかっているのだがどうしても体内に胎児がいるという状況が信じられない。ドッキリな気がする。ゆえに自分のことしかうまく考えられないのだ。
そう、妊娠して一番驚いたことは「妊娠しただけでは母親の自覚が全くわかない」ということだった。
文字にすると冷たい感じになってしまうが、勿論既に胎児のことは大好きだし、力一杯大切にしたいと思っている。
ただそれとは全く別で、私はてっきり妊娠するとなんか過剰にホルモンが分泌されちゃったりなんかして、それによって脳が作り替えられちゃったりなんかして、すごく大事にお腹を守ってみたりだとか「我が子命!自分の命は二の次!!」となると思っていたのだ。
だが現在妊娠8か月になってもまだそうなる様子はない。
自分のことは依然めちゃくちゃ大事だし、胎児は胎児で24時間好きな時に好きなように動いてお腹を蹴るし、私の栄養を吸って、私の知らないところで勝手に頑張って細胞を分裂させまくり、大きくなっている。
こんなに小さくて、私の腹の中にいて、なおかつへその緒でつながったりなんかしているのに私たちは立派に他人なのだ。
こんなに近くにいるのに、私はまだ胎児の顔も見たことがなくて性格も癖も何も知らない。
子供が体にいるということは予想以上に奇妙で不思議なことだと知った。
子供は保護者がいないと生きていけないのは当たり前だが、だからといって子供の事を親が完璧に制御できる瞬間なんて受精の瞬間から一度もないのだと思う。逆もまた同じ。
これって忘れがちなことだが、すごく大切なことだ。
私は私で、夫は夫で、子供は子供。
性格は違うし、考えが似ることはあっても全く同じになることなんてきっとない。好きなものも嫌いなものもきっと違うだろう。
何をされたらうれしくなるのか、不安になるのかもばらばら。
あくまで血のつながっている他人同士なのだ。
人生の節目節目、例えば卒業や就職、成人、結婚、妊娠…
それを経験するたびに、自分が自分でなくなってしまうんじゃないか、または変わらなければならないのではないかと不安に飲まれそうになることがある。
しかしこの32年間、何度節目を経験したって私は「私」以外にはならなかった。
年をとって自分のステータスが更新されたとしても、あくまで性格や生活は地続きで、急に変わってしまうことなどないのだ。
変化は常に徐々に。自分自身はもちろん、親子や家族、友達だってそうだと思う。徐々に育んでいくものなのだ。
これから私たちは、だんだん家族になって、親子になっていくのだろう。
その中で失敗してしまうこともたくさんあると思うけど、そのたびに話したり謝ったり工夫をして、きっとなんとかやっていくのだ。
この世界に子供を呼び出してしまって、無事に産まれてくれるとして、今後子供が私たち夫婦に対してどういう感情を持つのかはわからないが、私たちは既に子供のことが大好きだし、一人の人間としてきちんと向き合いたいと思っている。
今はただ、まだ顔も見たことがない、話したこともない腹の中の生き物に会えることを楽しみにしている。
何が起きても、焦らずに人間同士として付き合っていきたい。