燃え殻「明日をここで待っている」
一日の終わりや、疲れ切った今日を脱ぎ捨てた部屋でぽつりと明日を想うような言葉群
明日をここで待っている 第6回
仕事部屋のソファで眠っていると、ギターを練習する音色が隣の部屋から薄く聴こえてくる。壁が薄いのも、悪いことばかりじゃない。メロディーはどこか懐かしいが、曲名まではわからない。ここは渋谷、円山町の仕事部屋。ラブホテル街の真っ只中にある築40年の中古マンション。ご近所付き合いなどあるわけがない。ギターを弾いているのは、どんな人なのだろうかと思いながら、ソファで寝落ちする日々が半年くらいはつづいていた。
昔、笹塚に住んでいたとき、隣の部屋のカップルの怒号で朝目覚めることが多かった。とにかくそこも壁の薄い物件で、隣の部屋のドライヤーの音はもちろん、ゲーム音までしっかり聴こえてくる始末だった。あの頃は、仕事が終わって深夜に帰ると、まずテレビをつけていた。そのまま、風呂場でくるぶしまで熱めのシャワーで洗って、酎ハイをプッシュとやるのがおきまりのコースだった。その日は、いつもは朝になると聞こてくるはずのカップルの怒号が、真夜中に聞こえてきた。聞き耳を立てる必要もないほど、ハッキリした日本語が壁を突き抜けるように聞こえてくる。
「じゃあ、メール見せてよ!」「見せるかよ! プライバシーだろ!!」
「見られたらマズいことがあるんでしょ?」「そんなことあるわけねだろ」
浮気探偵と化した女と、プライバシーを盾に抗戦する男との戦い。僕は彼らのファイトを肴に酎ハイをグビグビとやる。こっちはとにかく一日、東京中を駆けずり回って、足がジンジンしているのだ。ギャンギャン言っている壁に両足を上げて、浮腫みを取るために必死だった。その間も、男と女のラブゲームは休戦するわけがない。
「じゃあ、さっきのハートマークのメッセージは?」
「は? 店長からだって」
「どこの世界に店長からハートマークが送られてくるヤツがいるんだよ!」
「は? 別に普通にあるわ、そんなこと」
無理がある。男の劣勢は否めない。その夜からしばらくすると、隣の部屋からの怒号はすっかり消え、男の気配もすっかり消えた。ゴミ置場に向かう若い女とは何度かすれ違ったが、男の姿を見ることはそれ以降一度もなかった。僕はこの手の人間らしい騒音が嫌なほうじゃない。どちらかというと「人間」していて、いいなとすら思う。
そして今日も仕事場のソファで寝落ちしてしまい、深夜にあまりに冷えて、目が覚めた。隣からは、やはり薄くギターの音色が聴こえていた。最初に聴いたときより確実にうまくスムーズになっている気がした。冬に向かう季節の匂いが、渋谷、円山町でもすこしだけ香った。気持ちがいいので窓を開けて、ぼんやりしていると、スマートフォンにメールが立て続けに届いている。編集者に深夜に資料をもらう約束をしていたことを思い出した。この時点でもう三十分は遅れていた。僕は急いでその辺に丸まっていた洋服に着替えて、道玄坂を下りて行く。待ち合わせ場所まであとちょっとのところで、信号につかまってしまう。ふと横を見ると、路上でギターを弾いている青年がいた。オーディエンスらしき、彼の演奏を見守る若い女の子が三人いた。信号が点滅して、青になろうとしている。そのとき、聴き覚えのあるメロディーが流れてくる。路上でギターを弾いている青年の旋律は、僕が毎日聴きながら眠っていたあの壁の向こう側から聴こえてくるメロディーだった。思わず、「ああ」と声が漏れてしまった。彼の演奏を見守るように聴いていた若い女の子たちがこちらを振り返る。彼は一心不乱に弾いていた。信号がまた点滅し始める。僕は信号が次に青になるまで、彼のギターを聴くことした。