燃え殻「明日をここで待っている」
一日の終わりや、疲れ切った今日を脱ぎ捨てた部屋でぽつりと明日を想うような言葉群
明日をここで待っている 第1回
友人は仕事から帰るとまず、気持ち良さそうに寝ている柴犬の腹に顔を埋めるらしい。柴犬も毎日のことなので慣れているのか、主人が気が済むまでジッと動かないでいてくれるんだと語っていた。それが友人の、劇団社会人から一人間に戻る儀式だった。
僕がテレビの美術制作をやっていたときは帰るとまず、靴下を脱いで洗濯カゴに入れて、風呂場に直行する。デニムの裾をめくり上げ、熱めに設定したシャワーで膝から下、特に足の裏を中心に石鹸を使ってよく洗う。タオルでしっかり拭いて、そのあとに冷えた缶チューハイを冷蔵庫に取りに行って、プシュ!だ。これが僕の劇団社会人から一人間に戻るための儀式だった。
僕の父親はモーレツに働く人で、子どもの頃、家でくつろいでいる姿を見ることはほとんどなかった。朝は四時半には起きて、自分で湯を沸かし、お茶を飲み、家族が起きないうように準備をして、始発の東横線で会社に出かけていく。帰りはだいたい午後10時くらいだったと思う。酔っ払って無様な姿で帰ってきたところは見たことがないし、人の道に反したこともしない。国の模範囚のような人だった。だから僕は幼いとき、父と雑談をした思い出がほとんどない。75才になった父と、「よし、話そうか」となるわけにもいかず、時々実家に帰っても、うまく話せたことがない。
ただ、先日ふと思い出したことがあった。その日、僕は取材と原稿の締め切りで、自宅に戻ったのが午前1時をちょっと回っていた。いつも通り、まず靴下を脱いで洗濯カゴに入れて、風呂場に直行した。デニムをめくり上げて、熱めに設定したシャワーで膝から下を、石鹸で洗っているときに、ふと父とのことを思いだした。それは秋の始めだったと思う。母親が閉め忘れた窓から、冷たい夜風が寝室に薄っすら吹き込んでいた。僕は掛け布団をはいでしまって、眠気とかけ布団を探したい気持ちがせめぎ合っていた。目をつむったまま探すが、どうしても掛け布団は見つからない。そこにまた冷たい夜風が吹き込んだ。僕はブルッと震えて、仕方なく目を開け、掛け布団を探すことにした。そのとき、居間の電気がついていることに気づく。僕は眠気まなこで、這うように居間を目指す。するとそこにはスーツの上着がハンガーにかけられ、丸まった靴下が形跡を残すかのように、ソファに置かれていた。風呂場の電気が点いている。僕は導かれるように、風呂場に向かう。風呂のドアはすこしだけ開いていて、その隙間から湯気がもくもくと立ち上っている。
「お父さん」
ズボンの裾をめくり上げ、シャワーの湯で入念に足を洗っている父親の背中に思わず声をかけてしまった。
「おう、起こしたか」
一日働いて帰ってきた父はあからさまに疲れ切っていた。そのあと、二、三言葉を交わしたはずだが、なにを話したのか思い出すことができない。
取材と原稿の締め切りをなんとか終わらせ、ほとほと疲れ切り、熱いシャワーで足を洗っていた僕は、ふとそのときの父の表情を思い出した。父がやっていた儀式を、自分がやっていたことに初めて自覚的になった。
風呂場から出て、タオルでしっかり拭いて、いつも通り缶チューハイを取りにいく。そのとき、出来心で父にメールを送ろうと思って、スマートフォンを手に取った。そこで初めて、父のアドレスを知らないことに気づく。えもいわれぬ申し訳なさが、心を締めつけた。今度の休み、父の好きなあんみつでも持って、実家に帰ろうと思った。そのとき、アドレスを聞くかどうかは、まだ決めていない。