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「おつかれ。今日の私。」ジェーン・スー

「おつかれ、今日の私。」vol.5

東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。

おつかれ、今日の私。 vol.5

気付くと、同じことばかり考えている。そういう日がもう何日も続いている。こういう時の「同じこと」はたいてい、えらくネガティブなことか、ありえないほどポジティブなこと。たとえば前者は取り返しのつかない仕事上の失敗や、誰かを傷付けてしまった失言、言い返せなかった昔の別れ話。後者なら、「もし私が〇〇だったら」系のシミュレーションや、ちょっといいなと思った人と距離を縮めていく妄想。今回は、残念ながら前者だった。

仕事上の大事な場面で、私がとんでもない失言をしたのはずいぶんと前のこと。なのに、近ごろそればかり思い出し、日が経つのと反比例して記憶がどんどん鮮明になっていく。相手が着ていた服、私からは見えないはずの自分の表情、私が口を開いた瞬間に凍り付いた空気の色。慌てて取り繕い、かえって事態が悪化したこと。こんなに鮮やかに思い出せるなら、脳のなかで捏造が始まっている可能性は十分にある。日を追うごとに、細部がありありと浮かんでくるんだもの。そのたびにヒュッと息が止まり、私はギュッとめをつぶる。「あぅ……」と小さな声が漏れてしまうこともある。そして考える。どうしてあんなことを言っちゃったんだろう。しかも、得意げな顔で。

自分の浅はかさに幻滅したことは、一度や二度ではない。ちゃんと正しく、ユーモアを持って寛大に生きたいのに。不用意に他者を傷付けることのない、思慮深い人になりたいのに。周りを見渡すと、私以外の大人はみなそれができているように思える。先の先を考え、相手を思って行動しているように。どうして私はそれができないのだろう。どんどん気分が暗くなる。

忘れられない失敗は、誰にだってあるものだ。気にしているのは当人だけで、その場にいた人たちは、もう忘れているに違いない。問題は失敗ではなくて、そのあとのリカバー。そこで人の真価が問われるってもの。ちゃんと謝ったし、もう大丈夫だよ。私は自分で自分の親友になりすまし、通りいっぺんの励ましの言葉を思い浮かべる。大丈夫、大丈夫。

いや、だめだ。今夜は全然効かない。すべての言葉に「でも……」で返したくなってしまうから。観れば必ずブチ上がる映画も、大好きな音楽もだめ。ちょっとした隙間――場面転換の間や次の曲へ移るコンマ数秒のブランク――の暗闇に、ネガティブ場面がぼわっと浮かんでくる。まるでマッチ売りの少女が見た悪夢。ヒュッと息が止まり、私はまたギュッと目をつぶる。

こうなったら、とことん付き合うしか手がないことを私は知っている。いまベッドにもぐりこんだところで、眠りに落ちるまでヒュッとギュッの無限ループが続くに違いない。眠りに落ちることができればの話だけれど。

私は洗面所の棚から、誕生日にもらった美顔器を引っ張り出してきた。転んでもただは起きぬのが信条。ネガティブを頭から追い出せないのなら、そのあいだに手を動かして顔の手入れをしてしまおう。私が美顔器で好きなモードは導入でもひきしめでもなく、クリアモード。普段の洗顔では取りきれない、肌に溜まった古い角質や毛穴の汚れを取り除く機能のことだ。

ふき取り用化粧水をしみこませたコットンを、美顔器にセッティングする。どういう仕組みかよくわからないけれど、これで肌をやさしく撫でていると、うっすらコットンが汚れてくる。特にあご、眉間、おでこまわり。本来は洗顔後に行うものだけれど、今日は化粧もしていないし、このままやってしまおう。その分たっぷり汚れが取れるはずだ。

美顔器で顔の表面を撫でるなんて単純作業の極みだから、ネガティブ思考はどんどん加速する。手を動かしながら、頭と心で答えのない問いを繰り返す。繰り返すたびにコットンは汚れ、私の顔面から少しずつ不要なものがそぎ落とされていく。

落ち込んだときには掃除をするといいと聞いたことがある。単純作業を繰り返すうちに、目の前が綺麗になって気分が晴れるのだそうだ。私は億劫な上に欲が深いから、これを自分の顔でやる。汚れたコットンを見ると、心の芯にへばりついていたネガティブがはがれ落ちたような気分になる。二度三度と繰り返し、うんとやわらかくなった頬やおでこに手をあて、ホッと息を吐く。ああ、気持ちいい。

このあとビタミンC導入なんかをやるともっといいのだろうけど、面倒なのでパシャパシャと化粧水を叩きこんで儀式は終了。前向きになれたとまでは言えないが、フラットにはなんとか持ち込めたと思う。今夜はこれで十分。はい、お疲れさまでした。
落ち込むたびに顔が綺麗になるなんて、我ながら素晴らしいシステムを開発したな。

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ライター紹介
ジェーン・スー
コラムニスト/ラジオパーソナリティ/作詞家
東京生まれ、東京育ちの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」(月〜金11:00〜)のパーソナリティを担当。
毎日新聞、婦人公論、AERAなどで数多くの連載を持つ。
2013年に発売された初の書籍『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ社)は発売されると同時にたちまちベストセラーとなり、La La TVにてドラマ化された。
2014年に発売された2作目の著書『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』は、第31回講談社エッセイ賞を受賞。

その他の著書に『女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。』(文藝春秋)、『今夜もカネで解決だ』(朝日新聞出版)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮社)、『私がオバさんになったよ』(幻冬舎)、脳科学者・中野信子氏との共著『女に生まれてモヤってる!』(小学館)がある

最新著書『これでもいいのだ』(中央公論新社)が発売中。
【特設サイト】https://www.chuko.co.jp/special/janesu/
【twitter】:@janesu112


イラスト:Ayumi Nishimura
大学在学中よりイラストレーターとしての活動を開始。
2016年〜2018年にはニューヨークに在住。
帰国後も現地での経験を作風に取り入れ、活動を続けている。
【Instagram】:_a_y_u_m_1_/
【official】ayuminishimura.com/

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