「おつかれ、今日の私。」Season2
東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。
おつかれ、今日の私。 vol.1
「人間は考える葦である」という言葉がある。自然に対し人間は脆弱な存在ではあるが、考える力があるという点では偉大だって意味らしい。17世紀を生きたフランスの数学者、物理学者、思想家であるパスカルの言葉で、「パンセ」という書物に載っているそうだ。「パンセ」はパスカルの死後に、彼が書き溜めておいたメモを遺族がまとめて出版したものだという。文筆業を生業にする者としては、そんなことをされたらたまったものじゃないと背筋が凍る。パスカル、可哀相。
人間が考える葦なのだとしたら、私の人生は毛足の長いじゅうたんだ。遠目からはわからないが、近づいて目を凝らせば髪の毛やポテトチップスのカスが絡まりまくってる。いつかのヘアピンだって落ちている。掃除機では吸いきれないし、粘着コロコロシートを使っても、くっついてくるのはじゅうたんの毛ばかり。どうにかしたい細々に限って、余計なことをするたび毛足の奥へ奥へと滑り落ちていく。
私の人生は、毛足の長いじゅうたん。カバンの中がいつもぐちゃぐちゃなこと、綺麗とは言い難い手書きの文字、同じことを何回も聞いてくる父親、やる気の温度計がゆっくり下がっていくルーティンワーク、週に2回の予定がいつも1回だけになってしまうジム。生活という名の毛足の奥に滑り込む問題は「カス」と呼ぶにふさわしいくらい取るに足らず、命にかかわることはひとつもない。けれど、「取るに足らないからね」と笑顔で放置できるほど、私は吹っ切れてはいない。ちゃんと向き合えば、じゅうたんのことも自分のことももっと好きになれるだろうし、面倒がそこに堆積していることはわかっているんだもの。でも、きちんと対処するのはもっと面倒なのだ。人生もじゅうたんも、ひっくり返して叩くには重すぎる。
そうやって「だって」と「でも」を繰り返し、やがて疲れてゴロンと横になってしまうのが私だ。表面もうっすら汚れているように見えるし、注意深く手で撫でるとベタベタしている箇所もないとは言えない、我が家のじゅうたんと私の人生。誰にとってもそんなもんだろう。
たとえばじゅうたんのど真ん中、手のひら大の焦げ跡があればすぐなんとかしようと思うけれど、そこまでハッキリと可視化された大問題は人生にそう起こらない。どちらかと言えば、その日の体調でウンザリしたり、気にならなかったりする玉虫色の問題がチリと積もっていく。
毛足の長いじゅうたんの上で、私は今日もなんとかやっていく。たまに吸引力の弱い掃除機を掛けたりしながら、だましだまし。パンチパーマみたいに毛足の短いじゅうたんにすれば、ゴミは掃除機でスーッと吸い込める。ぞうきんでゴシゴシ拭くことだってできる。でも、それじゃあ私の部屋にしっくりこないのだ。人生だってそう。余計なものが絡みついてはいるけれど、気にせず寝転がれるくらい気分のいい日だってある。そうじゃない日もあるけれど、まあそれはそれ。じゅうたんは買い替えられるが、人生はそうはいかないもの。だから私はこれからも付き合っていくのだ、この毛足の長さと。