
散歩 this way -02-
得難い世界観で溢れる音と歌詞が、音楽ファンから注目を集めているシンガーソングライター/詩人の柴田聡子が綴るエッセイ。
テーマは趣味であるという「散歩」。本人が実際に撮影した写真とともにお楽しみください。
「ハイド・パーク散歩」
ぴかぴかに晴れていて気持ちがいい。朝7時、ここはハイド・パーク。ロンドンにある大きな公園だ。
ビヨンセのコンサートを見るためにはるばるイギリスまで私はやってきた。当日になった今もまだ信じられない。ああ、夢みたい。この連載の前回で行くかどうかを迷っていたのがなつかしい。ヨーロッパに行くのは十数年ぶりで、しかもあまり経験が無かったひとり旅なのでビビりにビビっていたけれども、いざ来てしまえば案外なんともない。相変わらず貴重品のバッグを胸の前でぎゅっと抱きしめてはいるものの、あてどなく公園を歩けるくらいには緊張はとれた。
公園に入ってすぐのカフェでコーヒーを買う。何事においてもいちいち達成感があり心が沸き立つ。慣れないことをするのは良い
立ち止まり、繊細な噴水が数々配置されている庭に見入る。人がいっぱい走っていく。地図を見るとここはまだケンジントン・ガーデンズの端っこらしい。
ちょっと歩いて、ついにハイド・パークに入る。道がたくさん分かれている。メインの道から少し入ると人通りが少ない。木々がざわめく音ばかりになる。ハァ〜っと深呼吸をして伸びていたら横の草むらに陽光を受け佇む人がいて、開いた両腕をそっとしまった。
中学生の頃、L’Arc〜en〜CielのHydeが好きだった。そのせいか、ハイド・パークを歩いているあいだ何度Hydeを思い出しただろう。Hydeは世界を股にかけるスーパースターだからハイド・パークにはもちろん来たよね、きっと。
犬たちがリードなしで好きに歩いている。しかしみんな飼い主の言うことをよく聞いている感じで、逃げ出したり、むやみに吠えたり、人に駆け寄って飛びかかるといった気配はない。すごい。実家で飼っていた犬には絶対に無理だ。あの子は誰にでも果敢に向かっていって気が気でなかった。
道を歩いていると背後から、ぱからぱから、という音が聞こえてくる。振り返ると馬が二頭立っていてびっくりした。いろいろなところで見た土の敷かれた道は乗馬用だったのか。ここ最近のビヨンセのアルバムのジャケットにも馬が登場していることを無理やり引っ張り出して「運命だ!」と心の中で叫ぶ。私も馬に乗ってビヨンセに会いに行きたい。ビヨンセは馬に乗ってきてくれるだろうか。
そうして適当に道を選んで歩いていると大きな池に出た。水鳥が人を一切気にせずに憩っている。ほとりのベンチに腰かけて、大好きなエイミー・ワインハウスのファーストアルバムを再生する。私にとってのイギリスのスターといえばエイミー。彼女がその生涯を終えてもう十数年になる。いまだに新鮮に悲しく、いつ聴いても彼女の音楽は最高。そして、今日ももちろん最高で、なんだかいつもよりも増して最高に聴こえる。良すぎる。ファースト・アルバムよりはセカンド・アルバムをよく聴いていたけれども、ここではなぜかファーストの方が胸にグッとくる。バッグを胸に寄せて目を閉じて涙をこらえる。エイミー、愛してる。良すぎて友人にLINEを送る。やっていることがいつもと同じ。
唐突にトイレに行きたくなる。やった!旅先では便秘になりやすいのでこのチャンスを逃すまいと立ち上がる。池の反対側に有料のトイレがあるらしい。エイミーの音楽の始まりの輝きを丁寧に磨いたスタイリッシュなファースト・アルバムから、ダイナミックなアレンジの中で音の輪郭が溶けるようなスペシャルなボーカルを自由自在に聴かせてくれたセカンドへの変化の様子をあらためて辿り感動に浸りつつ池沿いの道を急ぐ。もう限界かというところでトイレが現れた。有料ではなかった。
となりにカフェがあったので朝食を摂ることにした。2日目にして初めてのちゃんとした食事だ。店に入るのが億劫で、これまでスーパーでパンなどを買って過ごしていた。イングリッシュブレックファストを注文。
カフェの窓から外を見る。池を泳いでいる人がいる。泳げるんだ。先ほどの感慨に戻る。エイミーの音楽の発展から、昨日テート・ブリテンで観たターナーの絵画の変遷を思い出す。ターナーの晩年の実験作、あれも輪郭が溶けに溶けて、光の中になにかが浮かび上がるような不思議な作品ばかりだった。エイミーが生きていてくれていたらどんな作品を作ってくれただろうと意味のない想像をする。生きていても、作品を作ってくれないかもしれないし、ライブをしてくれないかもしれないのだ。だから私は今日ビヨンセを見にきた。
思ったより多く人が泳いでいく池を見ていると、ソーセージにベーコン、目玉焼き、煮豆、ポテト、マッシュルーム、焼いたトマト、パン2枚がのった大満足プレートが到着した。平らで、皿の端で堰き止めるかたちの皿っていいな。帰ったら買おう。パンが硬くて鋭利で、速攻で口の中を怪我する。久しぶりの国外滞在で自分のヤワさに呆れていたのだけれど、まさか口の中までヤワだとは。帰るまでに口内炎が4つも出来た。
