「おつかれ、今日の私。」vol.13
東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。
おつかれ、今日の私。 vol.13
40代からの加齢って楽しい。予想外のことが、連続して起こるから。「老眼」という言葉は知っていたけれど、夕方になると目の焦点が合わなくなるなんて知らなかった。やる気はまだまだあるのに、目が先に閉店してしまう。これがウワサのかすみ目か。テレビCMで見たアレが、私の肉体にも起こる日がくるなんて。
眠りが浅くなり、2時間おきに目が覚めてしまうのにもびっくりした。休日は10時間ぶっ通しで眠っていたのが嘘みたい。「肉の付く場所が変わる」なんていう、30代のガックリとはレベルが違う変化が毎日起こる。新しい扉が、パカーン!と音を立てて開いたような気分。だけど、新しい自分を扉の向こう側に見出すような感慨もあって、これはこれで楽しい。
私がまだ30代に足を突っ込んだばかりのころは、中年女性から「40代からはもっと楽しい」とか「気持ちが楽になった」と聞くと、頼もしい半分、正直「ホントかな?」と訝しい気持ちになったものだ。自分がその地に立ってみて、なるほどこれか!と、眼前の景色に納得する。若いころとは違えど、これはこれで味わい深いと、いまならハッキリ言える。50代60代も、その季節ならではの楽しみ方が増えてくるのだろう。
楽しいことと同じく、つらいことにも変化が起きる。最近、仕事部屋と自宅の二か所の引っ越しを同時にやったのだが、これが思った以上にキツかった。肉体的な疲労の話ではない。それはそれとして当然あるのだけれど、問題は精神的な負荷。引っ越しがメンタルにくるようになるなんて、想定外にもほどがある。引っ越しって、夢や希望の詰まった行為だったのに!
なにがキツいかと言えば、まずは決断。仕事場にしろ自宅にしろ、言うなれば「いますぐには使わないけれどゴミではないもの」の宝庫だもの。決断保留の宝箱だもの。そういう宙ぶらりんな物質に「いる」と「いらない」のタグをつける取捨選択は、年を重ねるごとに負荷が強くなっていく行為なのだ。気づけば、すべての物質に情緒が絡みつきすぎている。私はもともと捨て下手だから、なんとかしないと次はもっとつらくなってしまうだろう。そろそろ家でも買おうかな。35年ローンを組んだら、払い終わるころには80代だけど。
次に、手続きのアレコレ。今回は手伝ってくれる人がいたのでとても助かった。それでも「次は電気」「ガスは立ち合い」「CATVはどうしよう?」「ネットは……」「水道は……」と、これまで何度も繰り返してきたはずのアレコレに心がザワザワしてしまう。To Doリストは完ぺきなはずなのに、なにか忘れているのでは? と確かめようのない不安が襲ってくる。不確実性に対する忍耐力が、明らかに低下した。
さらに、測定。手持ちの家具をどこに置くか? 新しく買う必要はあるのか? 正しく判断するには、メジャーで部屋の隅から隅まで測る必要がある。これだって20代から何度もやってきたことなのに、なぜか億劫の重力が若いころの何倍にもなった。昔はウキウキしながらやっていたはずなのに。
一方で、若いころと比べ、うんと楽になったこともある。嫉妬や僻みといった感情からはだいぶ解放されたし、素直に「うらやましい」と口に出せるようにもなった。他人の評価がまったく気にならなくなったとは言わないが、誰かの気まぐれな評価を気にし続ける根気がなくなったことだけは断言できる。いろいろ面倒くさくなったせいだろう。
そう、すべては「面倒くさい」のおかげなのだ。面倒くさいから決断が億劫になり、面倒くさいから手続きや測定があやふやになる。と同時に、面倒くさいから執着力が低下して「ま、いいか」でいろいろやり過ごせるようにもなる。強力な「面倒くさい」を手に入れたおかげで、苦しくなったこともあれば、楽になったこともあるというわけ。そうやって新しい自分に変化していくことが、年を重ねるということなのかもしれない。
いま楽しいのは、間違いなく「ま、いいか」のおかげだ。片時も目が離せないほどコントラストが強かった、過去の自分が見ていた景色なんて、所詮は執着がフィルターをかけていただけなのだと知る。あーよかった。そうわかっただけでもバンザイだ。
お疲れ、若かったころの私。あのころ、いろんなことに執着して頑張ってくれたからこそ、いまの私が多少は気と手を抜けるのだと思います。