「おつかれ、今日の私。」vol.12
東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。
おつかれ、今日の私。 vol.12
会社員時代、いくつかの会社を渡り歩いた。業種を問わず、キラキラと輝く魅力的な女性は、どの職場にも存在した。とは言え私の目に映ったのは、美人だとか、仕事ができるとか、不平を言わずに働くとか、いつも笑顔を絶やさないとか、そういう輝きではない。一見、仕事とはまるで関係がなさそうな特性が生む、働く人としての輝き、そして強さの話。
とある会社で出会った宇田川さんは、役職や序列が放つメッセージが受信できない人だった。彼女には、ヒエラルキーが見えない。いや、見えてはいるのだけれど、上の人が上のほうからなにか言ってきても、その圧を感じとれない。宇田川さんは、なんというか無重力遊泳が専門で、相手によって態度を変えられないのだ。
負けん気の強いタイプとも違い、宇田川さんはあからさまな示威行為さえブラックホールのように吸収してしまう。まさに暖簾に腕押し。「えらい人の言うことはニコニコ聞いていたほうがいい」という不文律さえ知らなかった。わからないことはわからないし、興味のないことには興味が持てない。誰になにを言われても、感じた通りの返事をするのは、傍から見ていて痛快だった。
相手によって態度を変えないことは、持つべき崇高な特性としてよく例に挙げられる。だが、これってかなり難しいこと。たとえば、「そんなことも知らないの?」というセリフ。誰に言われてもムッとくるが、相手によって私の反応はまったく異なる。
もし家族から言われたら、私は「うるさいなぁ」と相手の顔も見ずに、その場から立ち去るだろう。友達なら、「知らないわよ~ 教えなさいよ!」とふざけながら尋ねるだろう。職場の後輩から言われたら、知ったかぶりをしつつ、(この子いやな言い方をするのねぇ…)と、心のメモに名前を書きとめる。先輩や上司や取引先に言われても同じように心のメモに書きとめるが、表面上は「すみません」とか「お恥ずかしい限りです」なんて、必要以上に非を認めてしまう。さように、何を言われるかではなく、誰に言われるかで、言葉の持つパワーはまったく変わってしまうものだ。たぶん、宇田川さんを除く、ほとんどの人にとっては。
一方で、なにを言われても曲解し、卑屈な態度をとる人もいた。後輩から反論されればイキリ倒し、同期からの意見には嫌味で返す。先輩や上司からの何気ないひとことにも過剰反応し、自分を卑下して後から悪口三昧。こういう人は、たいてい宇田川さんのことが苦手だった。「空気が読めない」とか、場違いな発言をすると陰で咎めるのだが、それは宇田川さんが誰の前でも態度を変えないからだ。そこに文句を付けるなんて、 肩書のパワーで彼女をコントロールしたいと白状しているようなもの。それがわかっている人は、ぜったいに宇田川さんのことを悪く言わなかった。
つまり、宇田川さんは危険な存在でもあった。彼女をどう思うかで、その人の価値観が暴かれてしまうから。宇田川さんが各部署のキーパーソンから大切にされていたのも不思議はない。彼女に目くじらを立てると、周囲から器が小さいと思われるのを要人たちは知っていたのだ。宇田川さんは要人たちの自己演出に利用されていたとも言えるが、そのおかげで宇田川さんは露払いされた道をスイスイ歩けた。
「強いなぁ」と、思わず声が漏れた。パワーバランスに無頓着な人が、結果的にその場のパワーを支配しているんだもの。私にも真似ができないかと何度もトライしてみたが、故意にやるとあざとさがどうしても鼻につく。素直さよりも、防衛としての似非・破天荒キャラが前に出てしまう。悔しいけれど、私はほかの強さを身に着けるしかないなと思った。
彼女の強さに惚れ惚れしてから、もう10年以上経つ。私も「強い女性」と言われるようになったが、おもしろいもので、どこがそう感じさせるのか自分ではよくわからない。宇田川さんも、同じだったのだろうか。