「おつかれ、今日の私。」Season2
東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。
おつかれ、今日の私。 vol.11
たまに、なんでも許される人が存在するような気がしてしまう。思い付きで好き放題なことを言う、役職付きの特権階級のことではない。とんでもないわがままがまかり通ったり、何度失敗しても助けの手が自然に差し伸べされたりする人のことだ。
そういう人がごく身近にヒョコッと現れた時、私は「ズルいなぁ」と思う気持ちが抑えられなくなる。「わがまま」と「失敗」は真逆と言ってもいい事態なのに、「なんの咎めもなく許される」というフィルターを通ると、私には同じことに見えてしまうのだ。そんな自分が心底イヤになる。
うっすらと妬んだあとは、寂しい気持ちがヒタヒタと忍び寄ってくる。果たして、それらが私に許されたことはあったかしら。どちらかと言えば、とんでもない我がままを聞いたり、責めたい気持ちを抑え込んで失敗のフォローに回ったりしてばかりだったのではないかしら。私が許してもらえないのは、もしかしてなにか重大な欠点があるからではないかしら。
心のなかの、歪な箱の蓋がそっと開く。「あの人たちが許されるのは、愛される資格があるから。あなたには、それがないから」。聴きたくもない声が聴こえてくる。もう、うんざり。そんな誰にも証明できないことを考え始めたら、行きつく先は自分を安く見積もり続ける地獄しかない。
なにをしても許される人をうらやみながら、失敗や間違いや思い上がりがあったら、絶対に教えて欲しいという焦りも湧き上がる。みんなが気を遣っているだけで、もしかしたら私はひどい下手をやらかして、周りに迷惑を掛けているのではないかと不安で仕方がなくなる。なにをしても許される人を、指を咥えて眺めながら、絶対にああはなりたくないとも思っているわけだ。自分でもわけが分からない。
友人にこの話をすると、「なにをしても許される人は、自分にはちゃんと向き合ってくれる人がいないと悲しんでいるかもしれないよ。特別扱いって、それはそれでけっこう苦しいよ」と言われた。言いたいことはわかる。確かにそうかもしれない。けれど、そんな風に思える余裕がない時だって、私にはあるよ。そういう人は、自分が特別扱いされてることにすら気付いてない可能性があるもの。まあ、いつも相手の気持ちを慮れる余裕を持つあなたにだから、この話をしたのだけれど。ネガティブな気持ちに陥ると、友人に同じベクトルでぎゃんぎゃん言ってほしくなったり、そんなことはないとそっと諭してほしくなったり、私もけっこうわがままだ。
気持ちを持ち直すことさえできれば、なにをしても許される人なんて独裁者でもない限りそうそういないことが自然にわかる。単に、「なにをしても許される」ように私からは見えたというだけの話。なぜそう見えたかと言えば、わがままや失敗は、やってはいけないことだと私が私に固く禁じているからだ。
わがままや失敗は自分の価値を下げると信じ込み、それをやっている(ように見える)人たちをうらやみ、もし自分がああだったら大変なことになると、再び自分にそれを禁じる。なんて忙しないの。ひとり相撲にもほどがある。ホントにホントに、おつかれさんです。
愛される価値があるかどうかなんて相対的な話でしかないのだけれど、生きていると忘れてしまう瞬間がけっこう頻繁にやってくる。私がうらやむ人たちは、骨の髄までわかっているだけなのかもしれない。たとえここで拒絶されたとしても、自分の価値は揺らがないということを。