「おつかれ、今日の私。」Season2
東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。
おつかれ、今日の私。 vol.3
つい先日、すごいことに気付いてしまった。これは世紀の大発見かもしれない。みなさん心の準備はいいですか? それではいきますよ……。
「なんのために生きているのか?」なんてことを考えるときは、つまんないとき。
ジャジャーン! あれ? 肩透かしを食らった気分? いえいえ、ちゃんと説明すればわかってもらえるはず。
「なんのために生きているか?」を言い換えるなら、この世に生を受けた理由、自分の使命、生き甲斐などになるだろう。つまり、「私はこのために生きている!」と思える瞬間があれば、なんのために生きているかなんて自分に問うている隙はないのだ。
私が「このために生きている!」と快哉を叫びたくなるときは、たいてい喜びやしあわせに満ち満ちている。片や「こんなことのために生きているの?」とうらみがましい気持ちになるときは、悲しかったりつらかったりする。
ならば、「なんのために生きているのか?」が湧きあがってくるのは、「悲しいときや、つらいとき」なんじゃない? と思うかもしれない。でも違う。悲しくても、つらくても、同時にうっとりしてしまう瞬間が私にはあるから。いわゆる自己憐憫ってやつだ。そんなときは「なんのために生きているのか?」なんて、コマを先に進めようとすることは考えない。シクシクしながら、ジトーッとそこにいたいのが本音。よって、私にとって「なんのために生きているのか?」と「こんなことのために生きているの?」は、すごーく近いところにあるけれど、ぴったり重なる言葉ではないということ。
自己憐憫すらする余地がないとき、つまりくちゃくちゃと味わえる喜びも悲しみもないとき、私はつまらなさを持て余している。忙しいかヒマかは、さほど関係がない。忙しくてもつまらなくて反吐が出そうな日々はいままで何度もあったし、ヒマでもしあわせに包まれていたときのこともよく覚えているもの。でも、つまらなさは虚無。ゼロ中のゼロ。
現状の自分に納得がいかないと、もっとほかにやることがあるはずだと思うのが私なのだ。うぬぼれに近い期待が、自分にあるのだと思う。それを悪いことだとは思わないけれど、うぬぼれを少し高尚な言いまわしにしたのが、私にとっての「なんのために生きているのか?」だってことは忘れないようにしたい。大ごとにすればするほど、欲望を見失ってしまうから。要は、つまんないのだ。飽きているのだ、日常に。自分の生き死にに価値をつけたくなったら、軽い気持ちで新しいことでも始めたらいい。私にとっては、ただ、それだけのこと。
最後に注意。「なんのために生きているのか?」を「誰かから必要とされたい」に翻訳するのは、ちょっと危険だとも思う。誰かから必要とされながら苦しみに耐えることなんて、ザラにあるでしょう。そういうのからは、出来るだけ早く逃げ出したほうがいい。生きる使命は誰かのためではなく自分のためにあったほうが、徹頭徹尾健やかでいられることも、私は過去の経験から知っている。