「おつかれ、今日の私。」Season3
東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。
おつかれ、今日の私。 vol.01
私たちといると、数時間でパッと明るい顔になる。けれど、家に帰ると、なんとも言えない表情が貼り付いたままになってしまうあの子のことが心配だ。心配したところで、私があの子の人生を変えることはできないのだけれど。
私たちが知る限り、パワハラやモラハラやDVをしてくる家族がいるわけでもなさそう。なのに、家に戻るとあの子は、小さく小さく自信のない塊みたいになってしまう。本当は自信の塊になって欲しいのに。そうあって然るべき人なのに。
「必要とされていることを実感したい」と、あの子は言っていた。たいていの人にとって異論はないだろう。しかし、これには「本当に必要とされているのならば」という前提条件が付帯する。あの子は自信がないことに加えて人が良すぎるところがあって、「必要とされている」と「利用されている」の区別がつかないんじゃないかと思うときがある。その2つは完全に別物だ。
いろいろな理由があって、「自分の人生の主人公は自分だ」と気付くまでに時間がかかる人がいる。あの子もそのタイプだった。右に行くのも左に行くのも、前に進むのも立ち止まるのも、自分の自由にできるのだとは知らなかった。無意識に、誰かをいちばん怒らせないのはどんな行動か探っていた。常に、揉めないで済むやり方を模索していた。そんな必要はないし、誰かが怒っても、不当な罪悪感を押し付けてきても、知らんぷりでいいんだよと言ったらびっくりしていた。「知らんぷり」を知らない子。無知の知ならぬ、無知の無知だ。
家族に限った話ではない。仕事だってそう。最初は役に立てているような気がしていたのに、だんだんと喜びに違和感を持つようになったなら、ちょっと言葉はキツいけれど、それは利用されているからかもしれない。あなたの良心を、あなたの頑張りを、あなたのやさしさを、あなたの真心を、自分が利を得るために利用しているけしからん奴がいるからだ。ちょっと前にやたらめったらメディアを賑わせた「やりがい搾取」という言葉がそれにあたる。消滅したわけでもないのに、最近はとんと聞かなくなった。流行り言葉になることの危うさ。
誰かの真心を不当に利用している人も、自分がしていることには無自覚な場合が少なくない。むしろ自分がいないと、家族も恋人も部下も路頭に迷ってしまうとすら思っていたりする。でも、本当に困るのは利用する側のほうなのだ。
利用するほうもされるほうもお互いが、「私はそうでもないが、相手が自分を必要としている」と思っている場合は、もっと悲劇だ。健康的な関係とは言えない。あの子だって、環境が変わればキラキラ輝けることを、私たちはよく知っている。だって、私たちと一緒にいるときはそうなんだもの。
「じゃあ、本当に必要とされているってどういうことなんですか?」とあの子が言う。それはね、こちらから与えた時に、自分の持っているものが増えたような気持ちになることだと思う。与えれば与えただけ削られるような気持ちになるなら、相手から求められていないものを与え続けているか、相手があなたを利用しているかのどちらかだ。
あの子はきょとんとしていた。私の言ったことが伝わったか伝わらなかったか、私には判断がつかなかった。究極的には、実体験で学ぶしかないのかもしれない。えらそうに説いた私だって、背中から切りつけられるような痛みを人間関係で何度も味わった末に、暫定的な答えとしてここにたどり着いたんだもの。
それでも唯一確信して言えることは、一緒にいても自分が増えていかない相手といても、良いことなんて起こらないってことだ。それだけは、たぶん間違いがない。