「おつかれ、今日の私。」Season2
東京生まれの日本人。
現在、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める人気コラムニストで作詞家、プロデューサーのジェーン・スーが、毎日を過ごす女性たちに向けて書き下ろすエッセイです。
おつかれ、今日の私。 vol.17
友達の桜林直子さん(以下、サクちゃん)が『諦めの呪いを許可で解く話』というnoteを書いていて、それを読んだ私は「なるほどなあ」と深く頷いた。
サクちゃんは長年、目標を立てない生き方をしてきたらしい。常により良い選択をしてきたけれど、そもそもの選択肢は「知っているなかだけ」で選んできた。目の前の問題を都度クリアして、良いと思ったほうを選んで生きてきて、それだけでもすごいと私は思うのだけれど、サクちゃん曰く「たどり着いた場所は自分が望んで来たかった場所ではなかった」のだと。
こうなった理由を、サクちゃんは「自分が幸せになることを自分に許していなかったから」だと書いていた。選ばなければいけない場面に直面したとき、ほかの選択肢を貪欲に求めなかったのは、「自分にはそんなものは用意されていない」と信じていたからだと。それから生き方を変え、素直に「好きなものは好き」「欲しいものは欲しい」と認めていくと、最後に残ったのは「幸せになりたいか?」という問いだったんだそうだ。
私を含め、たいていの人が自分を低く見積もっている。だから欲望に蓋をして生きている。「だって、そんなものは分不相応だから」と尻込みしたり、なかったことにしたりしてしまう。
怒涛の三十代を経たあと、歩いてきた道を振り返って私が思うのは「私なんかが」と思って良い結果につながったことなど一度もなかったってことだ。人生にほとんど悔いはないものの、もう少し早く自分を信じてあげればよかったなとはちょっとだけ思う。
「私なんかが」のマジックワードは、処世としては役に立つかもしれない。けれど、鏡を見ながら言うのはオススメしない。「私なんかが」はまるで呪文のように、自分からやる気も可能性も奪っていくから。己の傲慢さを制御したいのなら、シンプルに「おごるなかれ」の一言でいい。鏡の中の自分を指さして言ってやれ。
サクちゃんの文章を何度も読み、時間を空けてまた読んで、私にも思い当たる節があると気付いた。コンプレックスや自信のなさってものが、ねじれた形で発情に近い欲望とくっついていること。これがいちばん難しい。
私にも経験があるが、うまくいかなかったとき「やっぱりダメだったわ」と、失敗に安堵してしまうことってあるでしょう。自分はそれには値しない人間だと外から承認してもらえたような、小さな小さな興奮が生まれる瞬間。たとえば自尊感情がガリガリ削られるような不倫ばかりしているとか、傍から見るとまったく合わない相手ばかりを探す婚活をしているとか、そういうのもこれに当たる。
毎度毎度同じところに突っ込んでいって、幸せにはなれないことを他者に証明してもらい、ボロボロになりながら「やっぱりね」と変に納得した顔で帰ってくる。散々な目に遭ったはずなのに、そういう相手や環境がそばにくると、またしても磁石のように引き寄せられていくので、見てるほうとしてはたまらんなあとなる。それは違うんじゃないかと思っちゃうけれど、まあその人の人生だし、とやかく言うのもな。
誰もが常に正しく生きられるわけではないし、心の欠損を埋めるようなかたちで「癖」に近い欲望が存在することはある程度仕方のないことだ。でも、癖の道を極めたとしても、欠損は永遠には埋まらないことは覚えておかなきゃ。「私なんかが」を貫き通し、ねじれた欲望に忠実であり続けると、結局は自分でもびっくりするくらい、想定よりずっと低い自分に仕上がってしまうから本当に厄介。好きなものを好きと言い、やりたいことをやった結果がそれでは目も当てられない。と同時に、発情磁力はすさまじいパワーを持つのよね。私にとっても永遠の課題だわ。
ではどうしたらいいのかと考えてみるに、やっぱりサクちゃんの言う「幸せになりたいか?」を己に問い続けていくしかないような気がする。無条件に引き寄せられるものが自分に幸せを連れてきたことがあるかと、忘れず己に問うていくしかない。答えが「幸せにはなりたいが、私を引き寄せるものが幸せを運んできたことはない」だったとしたら、そこが分岐点になる。どっちを選ぶかはその人次第だ。自分のテリトリーの奥深くに、再び「それ」を招くかどうかは。